Ustreamという単語が目を引くこの頃。
実際にUstreamのサイトを実際に見ている人はまだ少数だろうが、言葉としてはいろいろな媒体上で目に付くようになってきている。ただ単に映像を配信するという見聞しかないなら、ユーチューブの亜流かと思ってしまっている人もいることだろう。Ustreamのユニークさは使ってみないとわからないところにあるからすぐには分かりにくい。iPhoneなどのガジェットの操作性やサクサク動画が動くということが先ず重要になっている。クオリティーは二の次だ。ツールとしての映像配信を楽しむことを優先して、これからどう使っていけば面白くなっていくのだろうという点に興味がそそがれて、まだ「映像」の世界の拡張性なんていうことに重点を置かない段階だ。
つまりUstreamの魅了が何なのかを肌で感じて、口コミメディアとなるtwitterがその感動を格段の早さで広めていることになる。iPhoneやPCのフレームに映像が映っていることはもう驚きではない。インスタントに映像配信ができてしまうことがいままでとまったく違う何かをもたらしてくれるわくわく感を引き起こし、それが「ことば」で伝波している状態なのだ。
子どものように映像で遊んでいる大人がそこにいる。昔のフィルムの8mm映写機が流行ったときのようでもある。だからコンテンツとしてある写されている映像や放映時間枠やコンテンツの構成なんて破綻している状況になっても違和感を感じないのだ。いや、破綻こそがワクワクさせうる期待感を募らせ未知の画面の向こうに現れるだろう展開を見まもっているのだ。映画やテレビの制作を携わってきた者は「四角に切り取られた世界」の中にあらゆるイメージをつくってきたが、こんなにゆるゆるの映像配信がおこなわれることを目の当たりにしたとき、今まで確信としてあった作り手の自負や映像時代の「在り方」が大きく変わったことを痛切に感じるだろう。そしてそのショックは、1週間ぐらいは続く後遺症を感じるだろう(笑
5月に日本語版が登場する らしい・・。
というと5月には世間の声はもう一段と大きくなってくるということだ。ビジネスに使えるとか、創作の発表の場にいいとかさまざまな立場で思惑はあるだろうが、実際に目に見えている出来事は両手で数えられるくらいのエバンジェリスト達の姿だ。気を張ってあちこちと駆け回り、日本語版が公開されるその日に向かってあの手この手と映像的音声的工夫を重ねながら配信を続けているわけだ。見ている側は、Ustreamで追いかけtwitterで参加することが敬意をはらう方法になっている。参加してみると、twitterでつぶやいた言葉をUstreamの中の人が読み上げたりすると一体感が強まり、協調したい感はますます強くなるだろう。企業的にへたれそうになっていたUstreamは、twitterを加えることで命を吹き返したわけだ。140文字の威力というよりはリアルタイムに視聴者との共感やライブ感を持たせたことが映像に生きてきたことになる。
手元に岡田晋さんの書いた「映像未来学」という本がある。エイゼンシュテインから1970年大阪万博の映像パビリオンに使われていたマルチ画面のオンパレードまでの映画史的過程を追った書である。投影機とスクリーンから始まった動く映像は2010年になってひょっこりと現象として出てきたこのUstreamをどう見るだろうか。Ustreamの動画は、今までの動画作法と全く違う要素を持っているのだ。「映像未来学」にも映像と人との関係性を重点にメディアを取り上げながら語っているのだが、パーソナル放送局のような想定はもちろん出てこない(笑
一皮むけた映像の時代。まさに新たな映像配信の時代が、人と映像との関係を深めていくことになるのだろう。
4月 23rd, 2010
tsumura 
Posted in

